昨日、宇沢弘文教授メモリアル・シンポジウム「人間と地球のための経済 ― 経済学は救いとなるか?」at 渋谷表参道近くの国連大学に参加した。シンポの案内文は次のようなものであった(プログラムの詳細は最後にコピー貼り付け、一部略)。
2016年3月16日(水)、2001年ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・スティグリッツ氏を迎えて
宇沢弘文(1928~2014)は、戦後の日本の荒廃のなかで経済学を志し、アメリカ人経済学者ケネス・アローらとともに経済学に新たな数学的手法を持ち込みました。その関心は一貫して、市場均衡の問題、経済成長、持続可能な発展の問題に向けられ、著書『自動車の社会的費用』では、自動車と人間が共存しうる都市設計について経済学的分析を行い、「社会的共通資本」の概念を生み出しました。本シンポジウムでは、世界における貧困と格差の問題、地球環境問題と持続可能な成長の問題について自由な立場で議論することを通じて宇沢弘文の業績を再確認するとともに、将来への展望を共有します。
私の住んでいる古河から会場まで、正味往復3時間はかかるし、他に消化しなければいけない仕事も溜まっているが、私の場合、特に『「成田」とは何か――戦後日本の悲劇』(岩波書店[岩波新書], 1992年)と『社会的共通資本』(岩波書店[岩波新書], 2000年)を通して勉強させていただいていたから、やや漠然としているが、以前に学んだことを再確認したいみたいな気持ちで参加した。 シンポの概要を正確に紹介するなぞ、私レベルではとてもできないが、講演を聞いて再確認したのは次のようなことだった。
経済学の原点は人間であり、人間の心を無視してはいけない。経済学は主に市場経済を対象とするが、市場で取り引きされるものは、人間の営みの一部でしかなく、他に、医療、学校、行政や司法の制度などがあり、それらが円滑に機能して初めて、人間社会の生活は豊かになる。
グローバル化の中で、ミルトン・フリードマンらの新自由主義は、経済活動は市場競争を優先させたほうが経済は効率的に成長すると主張し、利潤追求とサバイバル競争を正当化しているが、社会的、政治的、経済的な弱者や被災者、大きく抽象的に見ると、格差問題を全くかえりみない市場原理主義の立場は、格差を拡大させ、結局は社会を不安定にする。
パネルディスカッションの中で、私は「2、30年前に学んだことを確認できて嬉しかったし、その通りで正しい考えだと思った。ただ日本では今も、アベノミクスとかゼロやマイナス金利政策などと言って、市場至上主義時代からの発想の政策が主流になっているように思う。しかも同時に、そうした考えは、残念ながら、人口減少による過疎社会や消滅社会が指摘される地方を含めた日本社会全体での主流でもある。どう考えたらいいのだろうか?」と質問した。
パネラーからの答えは、人的資源や物的資源は地域により異なるが、その地域独自の資源と特性を活かし、地域内で循環するシステムを作り上げていくことが、目指すべき方向ではないか、ということであった。
ついでにだが、ジョセフ・スティグリッツ教授は、昨日は招かれて安倍首相と懇談し、消費税の引き上げに反対の意見を示したと大きく報道されているが、正しくは、環境税を徴収し、その収入を格差対策に充てるべきだというのが教授の主張の主眼であったということであった。政府の宣伝力の強さとマスコミのニュース把握力の弱さが気になる。
帰り道、表参道からJR渋谷駅まで10分ほどを歩いて帰ったが、道中はずっと、20代から40代位で混雑し、しかも若い女性の割合が随分と高く、賑やかで楽しげだった。先週はオンブズマン学会で新宿の副都心と歌舞伎町を往復して2泊3日しているが、同様に混雑していた。日本人のふるさとの多くは過疎と高齢化に直面し、中には消滅社会の危機に直面しているのに、渋谷や新宿との落差は、もうどうしようもないほどに大きいなと痛感した。
15:00–15:10 開会挨拶とシンポジウムの趣旨 宇沢達(名古屋大学教授)
15:10–16:10 基調講演:「グローバリゼーションと地球の限界下における持続可能な経済と社会」(仮) ジョセフ・スティグリッツ(コロンビア大学教授、2001年ノーベル経済学賞受賞)
16:10–16:50 報告:「経済学と人間の心:宇沢教授が持続可能な未来に遺したもの」 松下和夫(京都大学名誉教授、公益財団法人地球環境戦略研究機関シニアフェロー)
16:50–17:00 休憩
17:00–18:00 パネル・ディスカッション「人間と地球のための経済」 コーディネーター:竹本和彦(国連大学サステイナビリティ高等研究所長)
パネリスト: ジョセフ・スティグリッツ 宇沢達 松下和夫 以上