ふるさと直方フォーラム

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新元号「令和」には大きな違和感を感じる❣ 2019.4.2 補遺2019.5.1

昨日、発表された新元号「令和」について私は「違和感を感じる」とのみ書いて済ましていた。10日ほど前からテレビ番組で元号フィーバーみたいな雰囲気を感じていたので、他人が桜見物で楽しく浮かれているのを、一人へそを曲げて部屋にこもっている孤独ジジイみたいに水を差すのは止めておこうという気持であった。

今朝、ネット記事やテレビを見ていると、多くはないが異論や疑問の声もあるようだ。それらに励まされたようでいささか情けないが、公的な問題なので、やはりきちんと自分の意見を明らかにしておきたい。

「和」は日本国憲法も願っていることであるし、国民が幸せであるための第一条件であるから、これからももっとも大切なものであることに変わりはないだろう。問題は「令」である。国民誰しもがすぐに思い浮かぶのは「命令」という言葉だろう。この命令を法の世界で表現するとすれば「法令」という用語である。国会が制定する「法律」と行政権限を有する者が発する「行政規則」の両方を指していて、「法令辞典」や「法令事典」の名の書物もある。私のような行政法を専門にしている者は、「令」という字からは反射的に「政令」とか「省令」その他の行政規則を連想する。

そうすると、現代は、憲法で国権の最高機関とされている立法府よりも行政府の権限の方が優越するようになる行政国家現象が著しく、民主主義との関係で大きな緊張を孕んでいることが長く指摘されているところ、「令」を重視することは、法治主義や法の支配の「法」よりも、行政権限を有する者が発する「令」をさらに一段優先させようとする意図を感じる。令和誕生に至る過程で安部首相の関与が大きかったようであり、なおさらその疑念が晴れない。

また、私たちは中学や高校の歴史教科書で律令国家と律令制度を習っている。律令法典は、社会規範を規定する刑法的な「律」と行政の手続や組織を規定する行政法的な「令」から構成されていたことまでは知らなくても、律令国家において「令」は国家と社会のルールに関わる重要なものであったという程度の理解はほとんどの日本国民が共有していると思う。

以上が、昨日「令和」が発表されたときに私が感じた違和感の淵源であった。そして、今日、テレビやネットでいくつかの議論を見かけた。安部首相は「令夫人や令嬢、令息などの『良い』『素晴らしい』『優れている』という意味で解釈している」と反論しているらしい。確かに昔、団令子さんという都会的で美しい女優さんがいたが、深窓の令嬢」のように「身分の高い家に生まれ、大切に育てられた女子というニュアンスでの素晴らしさ、優れていることであり、国民一般の中で感じられるものではない。「令」が素朴な国民感覚からのものではなく、社交儀礼上の敬意を払うというか、へりくだる関係で使われる言葉であったということである。

また、「巧言令色鮮し仁」(口先巧みに言葉をあやつる者には、誠実な人間が少なく、人として最も大事な徳である仁の心が欠けている)ということわざがあるとテレビで見かけた。「令」とは言葉巧みで、人から好かれようと愛想を振りまくことを意味するらしい。対義語は「剛毅木訥仁に近し」(意思が強く強固で、素朴で口数が少ない人物が、道徳の理想である仁に最も近い者である)ということは知らなかったが、「巧言令色鮮し仁」自体は私はいつも意識して行動している。

しかし、全閣僚会議やNHKはもちろんのこと、ほとんどの民放や有識者による「元号に関する懇談会」でも上記した問題点は議論されていないようだ。また、若い世代からもほとんど能天気な反応しか見られない。日本はいつでも体制翼賛会的なムードに突入できそうであり怖いほどである。

 〔補遺〕 今日は5月1日。否応なく令和になじまなければならないが、昨晩(4月30日)、天皇陛下の退位のさいのお言葉を拝聴した。心から平和を祈念し、どこまでも国民に寄り添う姿勢を貫かれたのだなと強く感じた。令和天皇からの天皇家や国民を代表して平成天皇に謝辞を述べた安部首相が平成天皇のお気持ちを深く強く継承されることを心から願う。